牛小最終回の報告が一通り終わったところで、小話でもひとつ。
最終回セッションでのことです。
洞窟の中にしつらえられた大量のタンスを前に謎の二者択一に悩まされつつ、PC3人は次々とタンスを開けていきます。
ルイス:このタンス開けるー。
GM :これ? これを開けるとね……10G入ってる。
バクラ:え、いくら?
GM :10G。
バクラ:えー! 3人で割れないじゃん!
GM :じゃあ12G。
ルイス:よっしゃー!
これが小話のポイントです。
6年生とはいえ、
瞬時に3の倍数に変更したGMがすごい……
……だけではなく。
GMの躊躇ないこの対応に、以前少し触れました「物語内の整合性」か「プレイ場面」かという分かれ目が見えてきます。
ここではGMが明言した内容(10G)よりも、3人で割りたいというプレイヤーの要求が優先されています。どうやら子どもたちにとっては、
友達と楽しむほうが優先であるという決定が自然に成されているようです。「架空の世界を構成して、物語を楽しむ」よりも先に「目の前の友達と遊んでいる」という厳然とした事実があるのですね。
これは、子どもたちのプレイスタイルの2段階目に思えます。TRPGを知ったばかりの子どもには、セッションは「ダイスを振る」「戦闘をする」場面として捉えられているように見えます。対して、この段階では、セッションを「友達と遊んでいる」場面としてとらえているように見えます。
これは、仲間遊びとしてセッションの場が成立し始めていることであり、歓迎すべきことです。ただし、この方向で遊び続ければ良いというものでもありません。「友達と遊んでいる」ことを大事にするあまり、「物語の内的な整合性」や「ルールの理解」という前提が「無いもの」になってしまえば、それは彼らの遊びの範囲を狭めることになります。
手前味噌で申し訳ないのですが、我らがスタッフ枯葉さんがかつて、このように言ったことがあります。
「TRPGはみんなで楽しむものだから、確かにそのセッションが盛り上がることは良いことだ。でもちゃんとルールを処理できるようにならなければ、そのゲームを遊べる人全員と楽しむことはできない」。
共有するべきことをちゃんと共有できるようになっていなければ、「その場かぎりの盛り上がり」で終わってしまうということです。
ここでいうルールというのは、各作品のゲームルールという意味であると同時に、TRPGを遊ぶに当たって暗黙の了解と考えられていることでもあります。その1つが物語内容の整合性であり、「GMがその権威をもって物語内容を恣意的に扱いはじめたら、遊びを続けることができない」という戒めを知ることが、その暗黙の了解を獲得する近道であると考えます。
このような意味で、子どもたちの一見「自由な」遊び場面に対してルール・内的整合性などの点からツッコミを入れることは、必要なことだと考えています。
ただし、インストラクションには適切なタイミングというものがあります(教育的な面をもつ活動はなんでもそうですが…)。ツッコミが早すぎても効果を発揮しません。今回はその意味で、「みんなで楽しそうにやってるなら良しとするか!」と、スルーしたわけであります。
と、これだけの文章を用意するのに大変な時間を掛けてしまいました。すみません。
(小林康夫氏の著作『不可能なものへの権利』にゲーム論と絡めて紹介しようとしたら支離滅裂になってしまい……これはまた改めて……)
次回は牛久保小学校後期第一回の様子を紹介できればと考えています。
では!
(ところで、「ルールは守らなければならない」とはいえ、一般的に認められている2つの逸脱について簡単に触れたいと思います。
作品としてのゲームルールについては、いわゆるGM裁量であるゴールデンルールが逸脱の代表例です。これはあくまで「ルールからの」逸脱であり、前提として「そのセッションでどんなルールが共有されているか」が理解されている必要があります。つまり、「ルールは守られなければならない」というメタルールとそのルールの内容を理解していなければならず、それらが「無いこと」になっている状況とは区別されます。今回の最終回の子どもたちのプレイスタイルだと、瞬間的に「無いこと」になっていそうな場面があったんで、ゴールデンルールとしてみてあげられるかどうかのボーダーラインにあると思います。
また、物語の内的整合性からの逸脱としては、「ご都合主義」的展開が挙げられます。これは物語の内的な整合性よりもプレイヤーの期待が先行していると考えられます。これについては「物語内容はどのようにして事実と認められるか」という観点からいずれ……)
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「じゃ、9Gしかなかったことにしてもいいけど?」とすかさず言ってしまうことでしょうね。
あぁ、おとなってきたない